【世紀のジャズピアニスト”セロニアス・モンク”】
現代最高峰のジャズピアニストと言えば、真っ先に”ロバート・グラスパー”の名前が挙がるのではないだろうか?
第55回グラミー賞にて「ベストR&Bアルバム」部門でピアニストとして史上初の受賞を果たす快挙を達成した。
遡ること100年前の1917年、アメリカ・ノースカロライナ州の歴史情緒溢れる街で産声をあげ、しばらくして大都市ニューヨークへとわたり、そこで音楽に触れ、後に世紀に名を残すピアニストがいた。その名は『セロニアス・モンク』(Thelonius Monk)
わずか5〜6歳の時に姉の影響でピアノに興味をもち、11歳の頃より本格的に音楽教育へと身を投じ、プロのピアニストを目指した。目標を高く掲げたモンクは高校を中退。そのままクリスチャンの楽団へと参加し約2年間全米を旅して回る。そこで培った経験を生かし、ニューヨークへと戻りバーやナイト・クラブなどで演奏を続けた。その地道な活動で徐々にモンクの名は知れ渡り、ビバップ(モダン・ジャズ)の発祥として知られる名門ジャズクラブバー「ミントンズ・プレイハウス」でも専属ピアニストとして雇われ、多大なる人気を博した。
その活躍がある人物の耳にわたるまでそう時間はかからなかった。それはジャズの歴史において最長のレーベル”ブルーノート・レコード”の創設者アルフレッド・ライオンであった。彼はかねてからモンクの噂を聞きつけており、高くモンクを評価し、異例の5年間契約を結んだ。まだまだ他のミュージシャン達に比べ、知名度は低かったもののアルフレッドはモンクの才能を見出していたが…。
そう、順風満帆とはいかず、モンクが放つ才能はまだ当時の時代にはフィットせず、異端の者としての扱いを受け疎外された。いわゆる時代の先を行く早過ぎた才能である。そういった事から世に馴染めず、自暴自棄に落ち入ったモンクは次第に麻薬へと手を染め、荒れた生活を送るはめとなった。その挙げ句には逮捕され、クラブからも追放されるなど人生のどん底を経験した。
しかし、こよなくジャズを愛する魂は失われてはいなかった。ブルー・ノート、リバーサイドと共にモダンジャズ三大レーベルの一つとして呼ばれる「プレステッジ・レコード」と契約を果たし再起を誓った。そこで数年にわたり活動を遂げた後に一番の新興レーベルであった「リバーサイド・レコード」へと移籍。その中で生まれたのが最もジャズ史に残る名盤として語り継がれることとなった作品『ブリリアント・コーナーズ』(Bulliant Cornes/1956年 )である。時代はようやく彼を受け入れ、これを機にリリースする作品はヒットする運びとなった。
最終的にはメジャーレーベルの「コロンビア」と契約。その名は全世界に広まり、ジャズ界の巨人の一人として歴史に名を刻んだ。時代は進み、世の中の流れは着々と歩みを早め、ジャズの黄金期は瞬く間に過ぎ去ってしまった。そういった中で彼は再び麻薬へと溺れ、シーンから姿を消した。そんなある日の1982年2月17日に突如モンクはこの世を去った。死因は脳内出血であった。享年64歳。まだ早い死である。晩年の彼の姿を知るものはあまりおらず、その余生はミステリアスなものであった。最後まで掴みどころのないスタイルを貫いたモンクらしい姿は彼のカリスマ性を引き立てた。
天才と言われた世紀のピアニストであったモンクは、それがゆえに悩みも多く、常に他とは違うスタイルを追求するあまり時代に逆らった。時にミュージシャン達ともぶつかりながら確固たる自分自身を形成していった。その姿はマイルス・デイヴィスを始め、ジョン・コルトレーン、バド・バウエル、はたまた村上春樹にまで影響を与えた。
さらに現代ではロバート・グラスパーにもその息吹は与えられ新しいジャズの波が巻き起こっている。モンク無くしては現代においての”ジャズ・リバイバル”はなかったかのように思える。だからこそ彼の生誕100周年を祝うべきであろう。
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