HISTORY OF JOE STRUMMER – part 1

HISTORY OF JOE STRUMMER

ロックに生きた伝説の人物”ジョー・ストラマー”の軌跡 (前編)

いまから遡ること14年前の2002年12月22日。衝撃的なニュースが世界を襲った。

ジョー・ストラマー 享年50歳。若くしての死であった… 。

本名ジョン・グレアム・メラーはトルコの首都アンカラで生まれた。外交官の父親の仕事上、世界を渡り歩き、10歳の頃、兄のデヴィッドと共にロンドン近郊へと移り住んだ。

そこで学生生活を送る中、音楽に没頭しTHE BEATLESやTHE ROLLING STONESなどを聴き込み、ロックへの探究を深めた。

初めて聴くロックミュージックは後に偉大なミュージシャンとなった彼の道しるべとなった。しかし、その道は決して平坦なものではなかった。

[最愛の兄の死]

在学中、突然にして悲劇は起こった。兄デヴィッドが自殺したのであった。白人至上主義の団体に入党していた兄は、その狭間で人生の生き方を失ったのではないかと、後にジョーは臆測した。それが後年バンドで彼の原動力となり、反ファシズムを掲げた詞に反映したのである。

悲しみに打ち拉がれるなかジョーは学校を卒業し、プロの芸術家を目指すためアートスクールに進学した。

[退学〜ストリートミュージシャン、波乱の幕開け]

アートスクールに入学するも肌に合わず、すぐに退学処分となった。その間、友人らとバンドを結成するもすぐに解散。やむを得ず日銭を稼ぐため肉体労働をしながら路上での演奏を度々行なうなど、悶々とした日々を送っていた。
そんなある日、友人らとThe 101’sというバンドを結成。それが軌道に乗り楽曲をリリースするまでの運びとなった。

その時期、南アフリカ人の女性と結婚したが、それは詐欺であった。その謝礼で得たお金で彼はフェンダー・テレスキャスターギターを購入した。それが彼のトレードマークとなり、世にそのモデルを広めたきっかけを作った。

[“THE CLASH”結成、怒濤の10年間]

1976年、ロンドンでパンクシーンが沸騰するなかで極めて目立つ存在であったSEX PISTOLSのパフォーマンスに強烈に惹かれた彼は、ピストルズのマネージャーとバンド結成の一端を担うミック・ジョーンズに誘われ、バンド加入を決意。そして遂に「THE CLASH」(ザ・クラッシュ)が誕生した。

翌年にはデビューアルバム『白い暴動』をリリース。瞬く間にアルバムは話題を呼び、バンドの快進撃が始まった。

その翌年には早くも二作目となるアルバム『動乱(獣を野に放て)』をリリース。これも絶賛の嵐で成功を呼び込み、さらにバンドに拍車を掛けた。

そして、バンド最大のヒット作となり商業的大成功を収めた3rdアルバム『ロンドン・コーリング』を79年にリリースし、バンドは世界最高峰のバンドとして偉大な名誉を獲得した。続く4作目『サンディニスタ!』も年間最高アルバムとして評されるなど、バンドの勢いはとどまることを知らない。

しかし、一度走り出したザ・クラッシュと言う名の列車はブレーキの利かない暴走列車と化した。バンドの空中分解を余儀なくされた曰く付きの82年発表の5作目となるアルバム『コンバット・ロック』はオリジナル・メンバーでは最後となる作品であった。

その年の前後にはドラム・トッパーの薬物問題による脱退、そして、メンバーとの摩擦で起きたミックの解雇。ジョーの突拍子もない行動など、全てがうまく廻らなくなっていった。

バンドは新メンバーを迎えるも85年にラストアルバムとなる『カット・ザ・クラップ』をリリースし、バンドは解散を表明した。

それまで楽曲の多くはジョーとミックにより作詞、作曲であったが、ミック脱退以降はジョーひとりで製作に至ったが、両親の相次ぐ死とバンドに対する想いが薄れた結果、最高の曲を作ることが困難となりバンドに終始を打ったのである。

次回に続く…。
次回、[解散後〜突然の死〜知られざる真実]…etc

後編はコチラ